連載記事:既得権者ほど改革を語る——日本とタイの“守られた人たち” 第6回

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第6回 既得権者は、なぜかいつも“改革”を語る

改革という言葉は、実に便利である。
聞こえがいい。前向きに見える。時代に合っている感じがする。責任感もあるように見える。

「改革が必要です」

こう言われると、たいていの人は反対しにくい。
若い世代にもチャンスを。女性も活躍できる社会に。地方にも光を。透明性を高めましょう。

まことに結構である。

ただ、長く日本とタイを見ていると、どうしても引っかかることがある。
改革を語っている人の椅子だけ、なぜか動かない。
会議の名前は変わる。部署の名前も変わる。スローガンも変わる。資料のデザインも変わる。横文字も増える。

でも、最後に決めている人はあまり変わらない。

改革とは、本来なら椅子の位置を変える作業である。
ところが現実には、古い椅子に新しいカバーをかける作業になっていることがある。
座っている人は同じ。位置も同じ。高さも同じ。ただ見た目だけ、少し今風になる。

なかなか器用である。

既得権者が改革を語る理由は、案外シンプルかもしれない。
先に改革を語ってしまえば、自分が改革される側に回らなくて済むからである。
「改革が必要です」と言う人は、改革する側の人間に見える。改革される側ではない。改革を設計する側。改革を指導する側。改革の必要性を説く側。

この位置に立てる。

すると、自分の椅子は見えにくくなる。
視線は外に向く。

若者をどう育てるか。女性をどう活用するか。地方をどう再生するか。外国人材をどう受け入れるか。現場をどう効率化するか。
言葉だけ見れば立派である。

しかし、肝心な問いが抜けている。

あなたは、何を手放すのですか。

若者に機会を渡すなら、誰かが機会を少し譲る必要がある。女性に権限を渡すなら、誰かが権限を分ける必要がある。地方に決定権を渡すなら、中央が握っているものを手放す必要がある。
改革とは、きれいな言葉を足すことではない。
今ある何かを動かすことである。
その「何か」は、たいてい既得権者の近くにある。
だから、そこには触れない。

日本で改革が語られるとき、よく出てくるのが「丁寧な議論」である。

関係者との調整。段階的な実施。現場への配慮。慎重な検討。
どれも悪い言葉ではない。急に変えれば混乱するし、現場の理解も必要である。

そこは分かる。

ただし、これらの言葉は、改革を止めるためにも使える。
「慎重に進めましょう」と言いながら、ほとんど進めない。
「関係者と調整しましょう」と言いながら、関係者の中に変えられる側の人ばかりを入れる。
「現場に配慮しましょう」と言いながら、本当に配慮しているのは現場ではなく、現場を管理してきた人の顔だったりする。

日本の改革は、空気を壊さない範囲で進む。
だが、その空気の中に既得権が入っている場合、改革は最初から限界がある。
空気を壊さない改革は、空気に守られた人を壊さない。
日本では、改革が反対によって止まるとは限らない。

理解によって止まる。

「おっしゃる通りです」
「問題意識は共有しています」
「非常に重要な視点です」
「今後の検討課題とします」

ここまで丁寧に受け止められると、文句も言いにくい。
だが、受け止められた意見が、そのまま棚に置かれて埃をかぶることもある。

日本の既得権は、反対よりも受け止め方がうまい。
一方、タイで改革が語られるとき、問題になるのは「誰の顔を潰すか」である。

行政改革、教育改革、汚職対策、デジタル化、透明性向上、外国人投資の促進。

言葉は立派である。

ただ、実際に進めようとすると、人間関係にぶつかる。
その変更で、誰の裁量が減るのか。誰の紹介ルートが弱くなるのか。誰の収入源が細るのか。誰のメンツが傷つくのか。

ここに触れると、改革は急に柔らかくなる。
新しい制度はできる。看板も変わる。システムも入る。書類のフォームも変わる。
しかし、現場の人間関係は残る。
誰に話を通すか。誰を先に立てるか。誰の紹介なら早いか。誰には強く言えないか。誰に恥をかかせてはいけないか。

ここが残る。

タイの改革は、人間関係の地図を塗り替えるところまで踏み込まないと深くならない。
だが、それをやると面倒である。
あまりにも面倒である。
だから、多くの改革は制度の表面をなでる。

顔を潰さない範囲で変える。関係を壊さない範囲で変える。上の人の体面を保ったまま変える。
これはタイ社会の知恵でもある。急に壊さない。正面からぶつからない。逃げ道を残す。相手に恥をかかせない。
ただし、その知恵が既得権の延命装置にもなる。
顔を立てすぎる改革は、顔の奥にある権益には届かない。

改革を語るとき、よく使われるのが「若者のため」である。
若者の未来。次世代のため。若い力を生かす。若者にチャンスを。
たいへん美しい。

しかし、若者のためと言いながら、若者に決定権を渡さない改革は多い。
若者は呼ばれる。意見も聞かれる。登壇もさせられる。写真にも写る。報告書にも名前が載る。
だが、最後に決めるのは年長者である。

これは日本だけではない。

日本では、若者は空気に合わせることを求められる。タイでは、若者は上の人の顔を立てることを求められる。
形は違うが、結果は似ている。
若者のためと言いながら、若者は決める側に回れない。

女性活躍も同じである。
見るべきは言葉ではない。
権限である。
会議に女性がいるか。イベントに女性が登壇しているか。写真に女性が写っているか。
それも大事ではある。
だが、それだけでは足りない。

予算を決められるのか。人事を動かせるのか。意思決定に関われるのか。責任だけでなく権限も持っているのか。
ここが本体である。
女性活躍というポスターは貼られる。だが、会議室の奥の椅子は変わらない。
それでは飾りである。

本物の改革は、誰かの居心地を悪くする。
権限を動かせば、権限を持っていた人が不快になる。予算を動かせば、予算を握っていた人が不快になる。評価基準を変えれば、旧基準で得をしていた人が不快になる。
だから本物の改革には、摩擦がある。
一方、改革ごっこには摩擦が少ない。

その代わり、言葉が増える。
ビジョン。ミッション。ダイバーシティ。イノベーション。サステナビリティ。ガバナンス。透明性。エンパワーメント。
横文字の盆踊りである。

もちろん、言葉自体が悪いわけではない。
問題は、言葉が増えるほど、椅子の話が消えることだ。
誰が決めるのか。誰が得をするのか。誰が退くのか。誰が責任を取るのか。誰が新しく座るのか。
ここを話さない改革は、だいたい安全である。

安全な改革は、既得権者に優しい。

そして、既得権者に優しい改革は、弱い立場の人にはあまり効かない。
改革が本物かどうかを見分ける方法は、意外と単純である。

言葉ではなく、椅子を見る。
誰が座っているのか。誰が新しく座ったのか。誰が退いたのか。誰が決めるようになったのか。誰がただ参加させられているだけなのか。
そして、もう一つ問いを足せばいい。

それで、あなたは何を手放すのですか。
この問いに答えられない改革は、だいたい怪しい。

日本では、空気の中に隠れた椅子を見る。
タイでは、人間関係の中に隠れた椅子を見る。

改革とは、未来を語ることではない。
現在の席順を動かすことである。

そこに手をつけない改革は、ただの演説だ。
しかも、椅子に深く腰掛けた人の演説である。
聞き心地はいい。
だが、聞いているうちに気づく。

あれ、この人、ずっと座ったままだな、と。

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