連載記事:既得権者ほど改革を語る——日本とタイの“守られた人たち” 第8回(最終回)

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第8回 既得権を笑える人だけが、社会を少し外から見られる

既得権という言葉は、便利である。
とても便利である。
なぜなら、自分以外の誰かを批判するときに使いやすいからだ。

政治家、官僚、大企業、業界団体、古い組織、偉そうな年長者、声の大きい古参、情報を囲い込む人、椅子からなかなか立たない人。
そういう人たちを見て、

「あれは既得権だ」

と言うのは簡単である。
そして、たいてい当たっている。
実際、既得権はある。日本にもある。タイにもある。会社にもある。行政にもある。家族にもある。外国人社会にもある。在タイ日本人村にも、ちゃんとある。
問題は、その先である。

既得権を批判している自分は、いったいどこに座っているのか。
ここを見ないと、既得権批判はただの石投げになる。

安全な場所から、他人の椅子に向かって石を投げる。自分の椅子は見ない。
これもまた、なかなか人間くさい。
既得権は、悪人だけが持つものではない。
むしろ、多くの既得権は、普通の人の普通の生活の中にある。

長くそこにいた。経験を積んだ。人を知っている。手順を知っている。昔からの関係がある。信用されている。発言が通りやすい。周囲が自分の顔を立ててくれる。
こうしたものが積み重なると、椅子ができる。
本人は、それを椅子だと思っていない。
努力の結果だと思っている。経験の蓄積だと思っている。信頼の証だと思っている。人間関係の成果だと思っている。

もちろん、それも間違いではない。
努力もある。経験もある。信頼もある。積み上げたものもある。
ただし、それだけではない。

自分が座っている椅子は、完全に自分一人で作ったものではない。
時代、場所、家族、所属、国籍、年齢、性別、言語、人との出会い、運、偶然。
そういうものも混ざっている。

既得権とは、自分の椅子に混ざっている偶然を、全部努力だと思い込むところから始まる。
日本とタイでは、既得権の出方が違う。
日本では、既得権は空気に隠れる。
前例、慣例、会議、慎重論、段階的な実施、現場への配慮、みんなのため、波風を立てないため。

こうした言葉の中に、椅子が隠れる。
誰も明確に反対していない。でも、進まない。
日本の既得権は、非常に丁寧である。
丁寧に受け止める。丁寧に検討する。丁寧に棚に置く。そして、丁寧に忘れる。

一方、タイでは、既得権は人間関係に隠れる。
顔を立てる。恥をかかせない。紹介者を大事にする。上の人を尊重する。関係を壊さない。マイペンライで場を流す。
こうした柔らかい作法の中に、椅子が隠れる。
タイの既得権は、怒鳴らない。笑う。うなずく。その場を丸く収める。そして、関係の地図は変えない。

日本は空気で椅子を守る。

タイは関係で椅子を守る。

道具は違う。
だが、人間のやっていることは、案外似ている。

既得権の本質は、守られている人ほど、自分が守られていると思っていないことにある。
日本の年長者は、自分は苦労してきたと思っている。
タイの上位者は、自分は関係を大事にしてきたと思っている。
在タイ歴の長い日本人は、自分は現場で経験を積んできたと思っている。情報を持つ人は、自分は人を助けていると思っている。

どれも間違いではない。

ただ、それがいつの間にか、他人より少し柔らかい椅子になっている。
そこに気づけるかどうかで、社会の見え方は変わる。

自分は努力した。

それは本当かもしれない。
だが、その努力が評価されやすい場所にいたのではないか。自分の言葉が通りやすい立場にいたのではないか。誰かが先に道を開いてくれたのではないか。
この問いを持てる人は、既得権を少し外から見られる。
逆に、この問いを持てない人は、どれだけ改革を語っても、自分の椅子には触れない。

既得権を批判するのは、気持ちがいい。
これも認めた方がいい。
悪い人たちを指摘している感じがする。社会の構造を見抜いた感じがする。自分は分かっている側にいる感じがする。

この快感は危ない。
既得権批判そのものが、別の椅子になることがある。

「私は既得権を見抜いている」
「私は構造を分かっている」
「私は古い人たちとは違う」
「私は改革側だ」

こう思い始めると、今度は批判する側の椅子ができる。
椅子を批判していたら、自分の下にも椅子が生えてくる。
しかも、けっこう座り心地がいい。
だから、既得権を語るときは、少し笑いが必要だと思う。

他人を笑うためではない。

自分も笑うためである。

ああ、自分も座っているな。ああ、自分も昔話をしがちだな。ああ、自分も「最近の人は分かっていない」と思いかけているな。
そこを笑えるかどうか。
ここが大きい。

私自身も、タイに長く住んできた。
日本人としてタイで働き、タイ語を使い、タイ社会を見てきた。
タイ人家族との生活もある。
役所、病院、ビザ、会社、現場、言葉のズレも見てきた。

つまり、私も椅子に座っている。
在タイ歴という椅子。
経験という椅子。
タイ語を使ってきたという椅子。
日本とタイを比較して語れるという椅子。
だから、私が「在タイ歴マウントは危ない」と書くとき、自分も同じ罠に片足を突っ込んでいる。

一歩間違えれば、
「在タイ歴マウントを批判する在タイ歴マウント」
になる。

地獄の二段ベッドである。
上にも下にも寝心地が悪い。
だから、自分の椅子を見ながら書くしかない。

自分の経験は価値がある。だが、万能ではない。
自分の見てきたタイは本物である。だが、タイの全部ではない。
自分の言葉には重みがあるかもしれない。だが、その重みで誰かを黙らせるなら、それはもう既得権の始まりである。

椅子を持つこと自体が悪いわけではない。
経験も必要である。信頼も必要である。
人間関係も必要である。知識も必要である。長く住んだからこそ分かることもある。

問題は、椅子を当然のものだと思うことである。
自分の椅子は、誰かのおかげで座れているかもしれない。
誰かがまだ立たされているかもしれない。
自分が少し席を詰めれば、別の人も座れるかもしれない。

そう考えられるかどうか。

椅子があるのに「ありません」と言う人が一番困る。
「これは椅子ではありません。努力です」
「これは椅子ではありません。伝統です」
「これは椅子ではありません。文化です」
「これは椅子ではありません。現実です」

いや、椅子です。
かなりしっかりした椅子です。
既得権を笑える人は、少しだけ自由である。

他人の既得権だけではない。
自分の既得権も笑える人である。

日本では、空気に隠れた椅子を見る。
タイでは、人間関係に隠れた椅子を見る。
在タイ日本人社会では、情報と在タイ歴に隠れた椅子を見る。

そして最後に、自分の椅子を見る。
改革とは、未来を語ることではない。
現在の席順を見えるようにすることである。

既得権とは、悪人の専売特許ではない。
人間が一度座った椅子を、自分のものだと思い始める現象である。
だから、誰にでも起きる。

私にも起きる。あなたにも起きる。
日本にも起きる。タイにも起きる。
海外の小さな日本人村にも起きる。
人間だから、座っていたい。

そこは正直でいい。
ただ、座っていることを「改革」と呼ぶのは、さすがに少し図々しい。
既得権を笑える人だけが、社会を少し外から見られる。
そして、自分の椅子も少しだけ横から見られる。

椅子が見えた瞬間に、もう完全な元通りではない。
そこからしか、改革は始まらない。

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