![]()

第4回 日本は“平等”と言いながら、なぜ席順が決まっているのか
日本人は、平等という言葉が好きである。
少なくとも、表向きには好きである。
みんな同じ。
誰にでもチャンスがある。
努力すれば報われる。
能力で評価される。
年齢や性別ではなく、実力で見ましょう。
聞こえはたいへん美しい。
ただ、実際の日本社会を長く見ていると、どうも話がそこまで単純ではない。
平等です。
ただし、上座は決まっています。
自由に意見を言ってください。
ただし、最初に誰が発言するかは空気で分かってください。
若い人の意見も大切です。
ただし、最終判断は年長者がします。
能力主義です。
ただし、肩書きと所属先は先に見ます。
なかなか味わい深い。
日本社会は、平等を語りながら、席順にはかなり敏感である。
そして、この席順こそが、日本型既得権の温床になる。
座る場所で、だいたい分かる
日本の会議室に入ると、何も言われなくても分かることがある。
誰が中心人物なのか。
誰が決定権を持っているのか。
誰が発言しやすいのか。
誰が聞き役なのか。
誰が資料を作った人なのか。
誰がただ呼ばれただけなのか。
これは肩書きだけではない。
座る場所。
発言の順番。
うなずかれ方。
メモを取られるかどうか。
誰の発言に周囲が顔を向けるか。
誰の発言は「なるほど」で流されるか。
こういう細かい動きに、序列が出る。
日本では、露骨に「あなたは下です」とは言わない。
そんな乱暴なことはしない。
その代わり、座席表で分からせる。
発言順で分からせる。
呼び方で分からせる。
資料の扱いで分からせる。
実に丁寧である。
丁寧すぎて、かえって逃げ場がない。
平等な顔をした序列社会
日本は、身分制社会ではない。
少なくとも、制度上はそうである。
だが、社会の運用を見ると、序列はかなり強い。
年齢。
社歴。
役職。
学歴。
会社名。
所属部署。
正社員か非正規か。
本社か地方か。
男性か女性か。
新卒か中途か。
内側の人間か外側の人間か。
こうした要素が、見えない名札のように人に貼られている。
もちろん、誰もそんな名札を胸につけて歩いているわけではない。
だが、周囲は見ている。
「あの人はどこの会社の人?」
「役職は?」
「何年目?」
「本社の人?」
「紹介者は誰?」
「どこの大学?」
「正社員?」
「外注?」
こういう情報で、最初の扱いが決まる。
日本では、平等な議論をしているように見えても、実際には発言者の属性が先に読まれる。
同じことを言っても、誰が言うかで重さが変わる。
若手が言えば「面白い視点ですね」。
部長が言えば「重要な指摘ですね」。
外部の人が言えば「参考意見ですね」。
有名企業の人が言えば「ぜひ検討しましょう」。
内容が同じでも、扱いが違う。
これを平等と呼ぶには、少し無理がある。
年齢という、もっとも自然に見える既得権
日本で最も見えにくい既得権の一つが、年齢である。
年齢は誰にでも増える。
だから、一見すると公平に見える。
若い人も、いつか年を取る。
だから年長者が重んじられるのは自然だ、という理屈もある。
だが、ここに落とし穴がある。
年齢が経験を意味する場面は確かにある。
長く生きた人には、若い人には見えないものが見えることもある。
それは否定しない。
しかし、年齢がそのまま判断力や正しさを意味するわけではない。
長く座っていただけの人もいる。
昔の成功体験から更新されていない人もいる。
自分の時代のルールを、今の時代にも適用しようとする人もいる。
ところが、日本では年齢が発言権に変換されやすい。
「昔はこうだった」
「我々の頃はもっと大変だった」
「若い人にはまだ分からない」
「経験を積めば分かる」
この言葉は便利である。
なぜなら、議論を中身ではなく年齢差にすり替えられるからだ。
若い人が正しいことを言っていても、
「まだ経験が浅い」
で処理できる。
実に効率的である。
ただし、社会にとってはかなり非効率である。
肩書きは、日本社会の通行証である
日本では、肩書きが強い。
これはもう、身もふたもない。
名刺交換をした瞬間に、空気が変わることがある。
部長。
常務。
代表取締役。
大学教授。
医師。
弁護士。
元官僚。
大企業出身。
有名大学卒。
こうした肩書きは、日本社会では通行証のように機能する。
もちろん、肩書きには一定の意味がある。
責任ある立場にいる人、専門性を持つ人、経験を積んだ人を区別すること自体は悪くない。
問題は、肩書きが中身を見る前に効いてしまうことだ。
肩書きがある人の凡庸な意見は、重く聞こえる。
肩書きがない人の鋭い意見は、軽く扱われる。
これは日本社会でよく起きる。
しかも、本人たちはそれを差別だとは思っていない。
「社会的信用」
「実績」
「立場」
「責任」
そういう言葉で説明される。
たしかに一理ある。
だが、その説明が強すぎると、新しい人はなかなか入れない。
肩書きは実績の証明であると同時に、既得権の鍵にもなる。
鍵を持っている人は、部屋に入れる。
鍵を持っていない人は、廊下で待つ。
そして部屋の中の人たちは言う。
「誰にでもチャンスはあります」
いや、その前にドアがあるんですよ。
女性や若者は、なぜ“参加”で止まりやすいのか
日本では、多様性という言葉もよく使われるようになった。
女性の参加。
若者の参加。
地方の参加。
外国人の参加。
外部人材の参加。
参加という言葉は便利である。
なぜなら、参加させるだけなら、席順を変えなくて済むからだ。
会議に呼ぶ。
意見を聞く。
写真に入れる。
コメントを載せる。
アンケートを取る。
パネルディスカッションに登壇させる。
これで参加の形は整う。
だが、決定権はどこにあるのか。
予算を決めるのは誰か。
人事を決めるのは誰か。
最終的に採用するかどうかを決めるのは誰か。
失敗したときに責任を引き受けるのは誰か。
成功したときに評価されるのは誰か。
ここを見ると、参加と権限の差が見えてくる。
日本社会では、周辺に人を呼び込むのは得意である。
ただし、中心の椅子を空けるのは苦手である。
女性も若者も外部人材も、会議室には入れてもらえる。
だが、上座はなかなか空かない。
これが日本型多様性の限界である。
彩りは増える。
席順は変わらない。
「実力主義」という言葉の危うさ
日本では、既得権を守るために「実力主義」が使われることもある。
一見すると、これはおかしな話に聞こえる。
実力主義なら、既得権とは逆ではないか。
能力のある人が上に行くなら、公平ではないか。
理屈としてはそうである。
ただし、問題は「実力」を誰が定義するかである。
既存の評価基準を持つ人が、実力を測る。
既存の組織に適応できる人を、実力があると見る。
既存の会議でうまく振る舞える人を、優秀と見る。
既存の言葉づかい、根回し、資料作法、人間関係をこなせる人を、できる人と見る。
そうなると、実力主義は既得権を壊すどころか、既得権に適応した人を選ぶ仕組みになる。
要するに、ゲームのルールを持っている側が、勝者を決めている。
それで「実力で勝ち上がれ」と言われても、少し困る。
もちろん、本当に能力のある人が評価される場面もある。
日本の組織がすべて閉じているわけではない。
だが、実力という言葉は、ときどき便利すぎる。
なぜその人が選ばれたのか。
なぜあの人は選ばれなかったのか。
その評価基準は誰に有利なのか。
そこを問わない実力主義は、既得権のきれいな包装紙になる。
日本の平等は、入口で語られ、出口で崩れる
日本社会の平等は、入口ではよく語られる。
誰でも応募できます。
誰でも参加できます。
誰でも意見を言えます。
誰でも挑戦できます。
しかし、出口を見ると違う景色が見える。
誰が選ばれたのか。
誰が残ったのか。
誰が昇進したのか。
誰が決定権を持ったのか。
誰が報酬を得たのか。
誰が名前を出されたのか。
ここに偏りが出る。
入口は開いている。
だが、奥の部屋には限られた人しか入れない。
日本の既得権は、この「入口の平等」と「出口の不平等」の間に隠れている。
募集はする。
公募もする。
意見も聞く。
形式は整える。
でも、最後に残る顔ぶれはあまり変わらない。
これを偶然と見るか、構造と見るか。
私は構造だと思う。
もちろん全てではない。
例外もある。
本当に開かれた組織もある。
変わろうとしている現場もある。
ただ、日本社会全体を見ると、平等の言葉のわりに、席順はかなりしぶとい。
タイの階層は見えやすく、日本の序列は見えにくい
ここでタイと比べると、日本の特徴が見えやすくなる。
タイ社会にも階層はある。
むしろタイの方が、階層感覚ははっきりしている。
年齢、家柄、学歴、財力、人脈、役職。
誰が上で、誰に気を使うべきか。
それは日常の所作にかなり出る。
タイは平等を装うより、関係と階層を前提に動く場面が多い。
一方、日本は平等を語る。
だから、序列が見えにくくなる。
見えにくい序列ほど、厄介である。
なぜなら、それを指摘すると、こう言われるからだ。
「いや、そんなつもりはない」
「能力で見ています」
「誰にでも機会はあります」
「差別ではありません」
「たまたまです」
たまたま。
便利な言葉である。
何十年も似たような顔ぶれが中心に残り続けても、たまたま。
若い人や女性や外部の人が周辺に置かれ続けても、たまたま。
決める人の属性があまり変わらなくても、たまたま。
さすがに、たまたまが多すぎる。
席順を変えない改革は、改革ではない
結局、日本で改革を語るなら、制度やスローガンより先に見るべきものがある。
席順である。
誰が上座に座っているのか。
誰が説明役に回されているのか。
誰が議事録を取っているのか。
誰の発言で場が動くのか。
誰の発言は流されるのか。
誰が最後に決めるのか。
ここを変えないまま、改革を語っても意味がない。
言葉だけ新しくしても、椅子の配置が同じなら、結果はあまり変わらない。
改革。
多様性。
若者支援。
女性活躍。
地方創生。
外部人材の活用。
実力主義。
どれも悪い言葉ではない。
だが、その言葉を語っている人が、ずっと同じ椅子に座っているなら、少し疑った方がいい。
その改革は、誰のためなのか。
本当に椅子を増やすためなのか。
それとも、今座っている人の椅子を少し座り心地よくするためなのか。
日本は平等を語るのがうまい。
だからこそ、席順を見る必要がある。
言葉ではなく、座っている場所を見る。
そこに、既得権の正体が出る。
日本社会は、身分制ではない。
しかし、席順社会ではある。
そして既得権者は、その席順を「秩序」と呼ぶ。
なかなか美しい言い方である。
中身は、ただの固定席なのだが。




コメント