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第5回 タイは“マイペンライ”と言いながら、なぜ階層は固いのか
タイを語るとき、日本人がよく使う言葉がある。
マイペンライ。
大丈夫。気にしない。まあいいよ。仕方ない。何とかなる。
場面によって意味は変わるが、日本人の多くはこの言葉に、タイのゆるさや優しさを重ねて見る。
たしかに、そういう面はある。
日本のように細かく詰めない。失敗しても責めすぎない。予定通りに進まなくても怒鳴らない。少し遅れても笑って済ませる。
日本の過剰な几帳面さ、過剰な責任追及、過剰な空気読み、過剰な「ちゃんとしろ」に疲れた人にとって、タイのマイペンライは救いに見える。
それは分かる。
ただ、そこで止まると、タイ理解はかなり危うい。
タイは、何でも許してくれる国ではない。
タイは、ゆるい顔をしながら、見えない線をかなりしっかり引く社会である。
そして、その線の多くは階層に関係している。
日本人は、タイの柔らかさを平等と勘違いすることがある。
店員が笑顔で接してくれる。近所の人が親切にしてくれる。知らない人でも助けてくれる。細かいことを言わずに受け入れてくれる。
その感覚から、タイは上下にうるさくない国だと思ってしまう。
だが、それは表面だけである。
タイ社会には、はっきりと上下がある。
年齢、職業、家柄、学歴、財力、役職、出身校、家族の背景、住んでいる場所、使っている言葉、身なり、そして誰とつながっているか。
こうしたものが、人の扱われ方に影響する。
ただし、それは大声では出てこない。
言葉づかい。ワイの深さ。座る位置。距離の取り方。名前の呼び方。紹介のされ方。待たされる時間。返事の温度。笑顔の種類。
このあたりに、階層が出る。
だから外国人には見えにくい。
見えにくいから、自由だと勘違いする。
自由なのではない。
線が柔らかく引かれているだけである。
柔らかい線ほど、踏んだときに気づきにくい。そして踏んだあと、なぜか周囲の温度だけが少し下がる。
タイ人は優しい。
これはよく言われる。実際、優しい人は多い。困っていると助けてくれるし、日本人のように真正面から詰めてこない。
ただし、この優しさを「何でも許してくれる」と解釈すると間違える。
タイの優しさには、距離感が含まれている。
相手を追い詰めない。恥をかかせない。その場を壊さない。表面上の穏やかさを保つ。
これは美徳でもある。
だが同時に、深い部分には入れないという意味でもある。
笑顔で受け入れているように見えて、実は一定の距離を保っている。大丈夫と言っているが、本当に信用したわけではない。マイペンライと言っているが、忘れたわけではない。
タイでは、関係が切れるときに音がしないことがある。
静かに連絡が減る。返事が遅くなる。予定が合わなくなる。紹介されなくなる。話が通らなくなる。
マイペンライの奥にあるこの距離感を知らないと、タイ社会は読めない。
タイの階層は、怒鳴り声ではなく礼儀作法で現れる。
ワイをする。相手の年齢や地位に合わせて言葉を選ぶ。上の人を先に通す。人前で否定しない。紹介者の顔を立てる。上位者に恥をかかせない。
これらは、社会を滑らかにする作法でもある。
日本人が学ぶべき部分もある。
日本人は、ときどき正論を持って相手の顔を踏みに行く。本人は合理的に話しているつもりでも、タイ側から見ると、ただ無礼に見えることがある。
タイでは、正しいことを言うより、正しい言い方をする方が大事な場面がある。
ただし、礼儀作法が強い社会では、上にいる人が守られやすい。
下の人は言いにくい。若い人は言いにくい。立場の弱い人は言いにくい。紹介された側は断りにくい。雇われている側は異論を出しにくい。
こうして、階層は礼儀の中に溶け込む。
そして、既得権はとても自然な顔でそこに住む。
タイ社会では、個人そのものだけでなく、その人の背景も見られる。
誰の子どもか。どこの学校を出たか。家族は何をしているか。誰の紹介か。どのグループに属しているか。誰と親しいか。
仕事、行政、教育、ビジネス、結婚、資産、権限が絡む場面になると、この背景は急に重くなる。
タイ社会では、人は単独の個人としてだけでは見られない。
その人の背後にある関係ごと見られる。
だから、紹介が強い。家族が強い。学歴が強い。グループが強い。コネが強い。
これは単なるズルではない。
制度だけでは信用を担保しきれない社会では、人間関係が信用の補助線になる。
知らない人より、誰かを通じて来た人。責任の所在が分かる人。何かあったときに話を戻せる人。
その方が安心できる。
理屈としては分かる。
ただし、この仕組みは、すでに関係を持っている人をさらに有利にする。
紹介される人は、さらに紹介される。信用される人は、さらに信用される。内側にいる人は、さらに内側へ入る。
外側にいる人は、外側のまま待たされる。
これが階層の固定化である。
マイペンライは、美しい言葉でもある。
怒りを鎮める。相手を許す。小さなトラブルを流す。場を和ませる。
ただし、誰がその言葉を使っているのかを見る必要がある。
上の人が下の人に失礼なことをして、下の人が「マイペンライ」と言う。雇う側が無理を言って、雇われる側が「マイペンライ」と言う。強い側が曖昧にして、弱い側が「マイペンライ」と言う。
この場合のマイペンライは、優しさというより、立場の弱さから出る処世術に近い。
本当は大丈夫ではない。
でも、大丈夫と言うしかない。
怒らないことと、気にしていないことは違う。その場で流すことと、許すことも違う。
表面上のマイペンライの裏で、関係の評価は静かに下がっていることがある。
タイでも改革は語られる。
行政改革、教育改革、汚職対策、デジタル化、観光の質向上、外国人投資の促進、格差是正。
言葉としては立派である。
しかし、その改革で上の人の椅子が揺れるかというと、そこは怪しい。
改革によって変わるのは、たいてい下の運用である。現場に新しい書類が増える。新しいシステムが入る。新しいルールができる。新しい報告義務が加わる。
だが、上の関係構造はあまり変わらない。
誰が決めるのか。誰の顔を立てるのか。誰の紹介が強いのか。誰に逆らえないのか。
ここに手を入れない改革は、タイでは深くならない。
日本には、平等と言いながら席順がある。
タイには、マイペンライと言いながら階層がある。
形は違う。言葉も違う。空気も違う。
だが、既得権の本質は似ている。
守られている人は、自分が守られているとは思っていない。上にいる人は、自分の位置を自然なものだと思っている。外側にいる人の不便さは、内側の人には見えにくい。
タイの既得権は、怒鳴り声の中にあるわけではない。
笑顔の中にある。礼儀の中にある。紹介の中にある。ワイの角度の中にある。マイペンライの一言の中にある。
だからこそ、見えにくい。
そして、強い。
タイはゆるい国ではない。
ゆるく見せながら、守るべき関係と階層はかなりしっかり守る国である。
マイペンライ。
いい言葉である。
ただし、その言葉で誰の椅子が守られているのか。
そこまで見ると、タイは少し違って見えてくる。




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