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第7回 外国人社会にも既得権はある:在タイ日本人村の小さな椅子取りゲーム
日本を出れば、日本のしがらみから自由になれる。
そう思ってタイに来る日本人は少なくない。
会社の序列。年功序列。肩書き社会。空気を読む文化。先輩後輩の上下関係。日本的な「ちゃんとしろ」圧力。
そういうものに疲れて、タイに来る。
バンコクの空気を吸う。暑い。ゆるい。人が笑う。細かいことを言われない。日本の満員電車もない。
ああ、自由だ。
そう感じる。
その感覚は分かる。
ただ、ここで面白いことが起きる。
日本を出たはずの日本人が、タイでまた小さな日本村を作る。
そしてその中に、ちゃんと序列が生まれる。
人間というのは、実に律儀である。
どこへ行っても、椅子を並べたがる。
在タイ日本人社会には、不思議な通貨がある。
在タイ歴である。
「タイに来て何年ですか?」
これは単なる会話の入り口にもなる。だが場面によっては、静かな階級確認にもなる。
3年。5年。10年。20年。30年。
数字が増えるほど、なぜか声に重みが出る。
もちろん、長く住んでいることには価値がある。タイ社会の変化を見てきた。役所の面倒も経験している。病院、ビザ、会社設立、不動産、家族関係、トラブル処理。
長くいなければ分からないことは確かにある。
経験は財産である。
ただし、経験がいつの間にか権威になると、少し面倒くさい。
「俺の頃はこうだった」
「昔のタイはもっとよかった」
「最近来た人には分からない」
「まあ、あと10年住めば分かるよ」
出た。
在タイ歴マウントである。
しかも本人は、マウントを取っているつもりがない。
親切に教えているつもり。現実を教えているつもり。甘い幻想を正しているつもり。
たぶん本当にそうなのだろう。
だが、聞いている側からすると、ありがたい情報と先輩風が絶妙な配合で混ざっている。
濃い。
かなり濃い。
外国人社会では、情報が力になる。
ビザはどうするのか。ワークパーミットは必要か。どの病院がいいのか。どの地域に住むべきか。どこで騙されやすいのか。誰に紹介してもらうと話が早いのか。
こういう情報は、生活に直結する。
観光なら知らなくても済む。だが住むとなると、知らないことがそのままリスクになる。
だから、情報を持つ人は強い。
タイ語ができる人。
行政手続きを知っている人。
病院や弁護士や会計士を紹介できる人。
現地の人脈を持つ人。
昔から業界にいる人。
こういう人たちは、在タイ日本人社会の中で自然に重くなる。
それ自体は悪くない。
むしろ、新しく来た人にとってはありがたい存在である。
問題は、情報が共有ではなく、支配の道具になるときである。
「それは知らないと危ないよ」
「君にはまだ分からない」
「普通はこうするんだよ」
「俺の知っている人に聞いてみるよ」
このあたりから、情報と上下関係が混ざり始める。
外国人社会では、情報を持つ人が小さな椅子を持つ。
そして椅子を持つと、人は少し座り心地を確かめたくなる。
面白いのは、日本を離れても、日本的な上下感覚は案外残ることだ。
年上。先輩。在タイ歴が長い。会社経営者。大企業駐在員。現地採用の古株。起業している人。タイ語ができる人。
こういう属性で、なんとなく序列ができる。
バンコクの日本人社会は、広いようで狭い。業界が違っても、どこかでつながる。誰かが誰かを知っている。あの店に行けば誰かに会う。あの人は昔こうだった、という話が残る。
狭い社会では、情報と評判が回りやすい。
そして、狭い社会ほど古参が強くなる。
これはタイに限らない。海外在住者コミュニティには、どこにも似た構造がある。
新しく来た人は、まず情報を求める。情報を持つ人のところへ行く。紹介を頼む。助言を聞く。
その関係が健全ならいい。
しかし、そこに「俺が教えてやる」が入り込むと、一気に日本村の匂いがしてくる。
日本を出たのに、日本的な先輩後輩が復活する。
タイの暑さでも、このあたりはなかなか溶けない。
在タイ日本人社会には、いくつかの層がある。
駐在員。
現地採用。
起業組。
リタイヤ組。
タイ人配偶者がいる人。
語学留学生。
ノマド風の人。
それぞれ見ているタイが違う。
駐在員には駐在員のタイがある。
現地採用には現地採用のタイがある。
起業組には起業組のタイがある。
リタイヤ組にはリタイヤ組のタイがある。
どれが本物という話ではない。
全部、本物である。
ただし、全部、部分である。
問題は、自分の見ているタイを「タイの現実」と言い切るときに起きる。
「タイはこういう国だ」
いや、あなたの座っている椅子から見えるタイはそうなんです、という話である。
椅子が違えば、景色も変わる。
在タイ日本人社会で厄介なのは、親切と支配欲が混ざることである。
困っている人を助ける。情報を教える。紹介する。注意する。現実を伝える。
ここまでは親切である。
しかし、その親切がいつの間にか上下関係になる。
「俺が教えてやった」
「あの人は俺の紹介で助かった」
「だから言っただろう」
「まだ分かっていないな」
こうなると、親切の顔をした支配になる。
新しく来た人は不安である。言葉も分からない。制度も分からない。誰を信じていいか分からない。
その不安に対して、情報を持つ人は強くなる。
そこで謙虚に共有できる人は、本当にありがたい。
しかし、そこで自分の椅子を作る人もいる。
「この人たちは自分を頼っている」
この感覚は、人を少し変える。
頼られるのは気持ちいい。
そして、気持ちよさは既得権の入り口になる。
日本人村そのものが悪いわけではない。
同じ言葉を話す人がいると安心する。情報交換の場にもなる。助け合いの場にもなる。孤独を減らす場にもなる。
問題は、その村の中にまた序列と既得権が生まれることだ。
古参。顔役。情報屋。紹介役。説教役。昔話担当。新参者教育係。
正式な役職ではない。
だが、空気としてある。
日本を出ても、結局また空気ができる。
在タイ日本人村は、日本社会の縮小版である。
そこに、タイ社会の人間関係、情報格差、言語格差、ビザや制度の不安が加わる。
すると、小さな椅子取りゲームが始まる。
誰が知っているか。誰が紹介できるか。誰が昔からいるか。誰が現地に強いか。誰が本当のタイを分かっていると言えるか。
なかなか香ばしい。
既得権は、大きな社会だけにあるのではない。
狭い外国人社会にもある。親切な先輩の中にもある。情報を持つ人の中にもある。そして、タイに長く住んだ自分の中にもある。
だから、自分の椅子を見る必要がある。
自分は何を知っているのか。
その知識で誰かを助けているのか。
それとも、自分の優位性を確認しているだけなのか。
昔の経験を、今のタイに上書きしていないか。
在タイ歴が長いなら、長いなりの責任がある。
情報を持っているなら、持っているなりの謙虚さがいる。
紹介できるなら、その立場を権威に変えない方がいい。
新しく来た人も、古参の話を全部うのみにしなくていい。
ありがたい情報は受け取る。古い武勇伝は半分聞く。説教は適当に流す。必要なら別の情報源で確認する。
在タイ日本人社会は、使えばいい。
住み込まなくていい。
日本から逃げてきたのに、バンコクで小さな日本に捕まる。
それは少し、もったいない。
ああ、ここにも椅子があるな。
そう笑って見られるくらいが、ちょうどいい。
その椅子に座るかどうかは、自分で決めればいい。
ただし、長く座りすぎると、立ち上がるときに腰が重くなる。
これは日本でもタイでも、だいたい同じである。




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