なぜ日本は「反戦平和護憲のお花畑ピクニック」を降りられないのか

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なぜ日本は「反戦平和護憲のお花畑ピクニック」を降りられないのか

日本の戦後平和教育には、ひとつ大きな弱点がある。

戦争の悲惨さは教える。
でも、戦争を防ぐ現実は教えない。

ここで話が止まる。

「戦争は怖い」
「二度としてはいけない」
「平和が大切」
「憲法9条を守ろう」

もちろん、間違ってはいない。
そこだけ切り取れば、誰も反対しにくい。

だが問題は、その先に進まないことだ。

戦争が怖いなら、どう防ぐのか。
侵略されたら、どう守るのか。
話し合いが通じない相手には、どう向き合うのか。
自衛隊は何のために存在するのか。
日米安保とは、結局なんなのか。

ここに入った瞬間、日本の空気は急に湿る。
梅雨前のバンコクより重い。

「いや、そういう軍事的な話はちょっと……」
「子どもには平和の大切さを教えたいので……」
「憲法9条があるから日本は平和だったのでは……」

出ました。
戦後日本名物、現実回避型・道徳着席スタイルである。

たしかに日本は戦後、直接戦争をしてこなかった。
これは大きい。誇っていい。

ただし、それは憲法9条だけで達成された奇跡ではない。

日本の平和は、日米安保、米軍の抑止力、自衛隊、経済力、外交、冷戦構造、周辺国の力関係、その全部が絡み合った結果である。

なのに日本では、なぜか話がきれいに圧縮される。

「日本人が平和を願ったから、平和だった」

いや、それは少し違う。

バンコクの高級コンドで、24時間警備員がいて、監視カメラがあって、カードキーがあって、入口に屈強なお兄さんが立っているのに、

「私は鍵をかけない自由な生き方をしています」

と言っているようなものだ。

その自由、警備員さんの夜勤シフトの上に乗っている。

日本の戦後平和も、似たようなところがある。
花畑で弁当を広げている人たちは、自分たちが花畑を守っていると思っている。
だが実際には、その周囲にはフェンスがあり、警備員がいて、外には野犬もいる。

それを見ない。
見たくない。
見たら弁当の味が落ちるからだ。

ここが、日本の「反戦平和護憲教育のお花畑ピクニック」が終わらない理由だと思う。

平和教育が強いからではない。
現実を見ずに善人でいられるから、便利なのだ。

「戦争反対」と言えば、道徳的には勝った気分になれる。
「平和が大事」と言えば、人として間違っていない顔ができる。
「憲法9条を守れ」と言えば、少なくとも悪人には見えない。

一方で、防衛費、台湾有事、尖閣、北朝鮮のミサイル、中国の軍事行動、沖縄の基地問題に踏み込むと、急に話が面倒になる。

だから多くの人は、そこを避ける。

避けたうえで、こう言う。

「平和が一番ですよね」

そうですね。
誰も二番とは言っていない。

問題は、一番大事なものをどう守るのか、である。

日本人は自衛隊が嫌いなわけではない。
災害派遣では感謝する。
ミサイルが飛べば守ってほしいと思う。
中国や北朝鮮の動きには不安を感じる。

でも、自衛隊を軍隊とは呼びたくない。
守ってほしい。
でも戦争の話はしたくない。
危険には備えたい。
でも危険を直視するのは嫌だ。

このねじれが、いかにも日本的だ。

日本では昔から、名前を変えると少し安心する文化がある。
軍隊ではなく自衛隊。
戦争ではなく有事。
撤退ではなく転進。
失敗ではなく想定外。

言葉を柔らかくすると、現実も柔らかくなった気がする。
だが、残念ながらミサイルは日本語の空気を読まない。

学校現場も、この問題を深く扱いにくい。
教師が安全保障を語れば、右だ左だと言われる。
憲法を語れば政治的だと言われる。
自衛隊を語れば軍国主義だと言われる。

だから一番安全な結論に逃げる。

戦争は悲惨です。
平和は大切です。
みんなで考えましょう。

そして誰も考えない。

これが、戦後平和教育のいちばん苦いところだ。

反戦を教えること自体は必要だ。
戦争の悲惨さを忘れてはいけない。
そこを軽く見る国は危ない。

しかし、悲惨さの記憶だけで平和は守れない。
平和は願望ではなく、設計である。
外交、軍事、経済、情報、同盟、国民の覚悟。
それらを組み合わせて、ようやく維持される。

ところが日本では、平和がどこか自然現象のように扱われる。
春になれば桜が咲く。
夏になればセミが鳴く。
憲法9条があれば平和が来る。

そんなわけがない。

平和は、放っておけば維持されるものではない。
むしろ、放っておけば壊れる。
国際社会は、町内会の回覧板ではない。
「お互い様でお願いします」が通用する相手ばかりではない。

それでも日本は、お花畑ピクニックをやめにくい。

なぜなら、そこにいれば楽だからだ。
責任を負わずに済む。
嫌な現実を見ずに済む。
自分を善人だと思える。
しかも、弁当までうまい。

だが花畑の外側では、すでに景色が変わっている。

日本が本当に平和を大切にするなら、そろそろ「戦争反対」の看板を掲げるだけでは足りない。

戦争を起こさせないために、何を持ち、何を捨て、何を覚悟するのか。

そこまで考えて初めて、平和主義は大人になる。

お花畑でピクニックをしているだけなら、まだ子どもの遠足だ。
問題は、その遠足の引率をしている大人まで、花冠をかぶったまま帰る気がないことである。

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