努力は報われる、という神話が人を落としていく

Loading

— 日本社会という“静かなふるい”とメリトクラシーの正体 —

努力は報われる、という神話が人を落としていく

成果主義の顔をした選別装置を、タイから眺めてみた

日本はよく「努力すれば報われる社会」だと言われる。学校でも、会社でも、政治のスピーチでも、この言葉は万能薬のように使われる。けれど実際に社会を生きていると、どこか違和感が残る。努力しても報われない人が多すぎるのだ。

日本社会は、競争社会というより選別社会なのではないか。勝ち残るというより、「落とされないように耐える」社会。しかもその選別は、とても静かに行われる。誰も「あなたは不要です」とは言わない。ただ「今回はご縁がなく」「自己責任で」「次は頑張りましょう」と言われるだけだ。

ここで登場するのがメリトクラシー、つまり能力や努力に応じて評価される仕組みだ。本来これは、身分や血縁に縛られない、かなり希望に満ちた思想だった。生まれではなく実力で評価される。聞こえはとてもいい。

問題は、日本でこのメリトクラシーが少し変質している点にある。評価されているのは、必ずしも成果や創造性ではない。空気を読む力、失敗しない慎重さ、前例を壊さない姿勢、年齢や経歴の「整い具合」。つまり、測りやすい人間だ。

結果として残るのは、突出した人ではなく、削られ上手な人だ。角を落とし、疑問を飲み込み、声を下げ、長く耐えられる人。日本型メリトクラシーは、成果主義というより適応主義に近い。

なぜこうなったのか。理由はシンプルで、日本社会は失敗に厳しすぎる。そして、やり直しの制度が弱い。評価する側も責任を取りたくないから、「無難な人」を選ぶ。その結果、評価は育成ではなく、ふるい落としの道具になる。

📊 比較表:日本 vs タイのメリトクラシー

観点日本タイ
歴史的背景戦後の民主化と教育改革で「平等な教育アクセス」を重視王室・仏教・階層社会の伝統が強く残る
文化的価値観和(調和)、集団主義、義理・恩階層意識、バラモン的価値観、敬意の文化
教育と機会の平等高校進学率ほぼ100%、大学進学も広く普及都市と地方で教育格差が大きい
評価の仕組み学歴主義+年功序列が長く支配。近年は成果主義導入学歴+家柄+コネ(縁故)が依然強い
社会的流動性かつては高かったが近年は停滞伝統的階層が強く、流動性は限定的
メリトクラシーの実態「形式上は能力主義、実態は混合型」「能力主義は部分的、実態は階層主義+縁故」
成功者の語り「努力すれば報われる」物語が強い「運・徳・縁」が成功の語りに含まれる
格差の再生産教育格差が拡大しつつある都市・地方、富裕層・一般層の格差が大きい

タイに長く住んでいると、この構造がよく見える。タイにも格差はあるし、不公平も多い。ただし社会はかなり雑だ。学歴がズレても何とかなる。仕事に失敗しても別ルートがある。真面目に言えば非効率だが、その分、人が社会から完全に排除されにくい。

日本でふるいに落ちた人が、海外で急に生き生きする例は珍しくない。それは能力が突然生まれたからではない。測られ方が変わっただけだ。日本の尺度に合わなかっただけの人が、「能力がない」と思い込まされてきた。

メリトクラシーは、勝者には自信を与えるが、敗者には自己責任を与える。その心理的圧力は強烈だ。日本社会で落ちた人ほど、自分を責める。「自分がダメだった」と考えるよう、きれいに設計されている。

問題はメリトクラシーそのものではない。問題は、それが単線化していることだ。ふるいはあってもいい。ただ、拾い上げる手がない。置き直す棚がない。別の使い道を考える知恵がない。

ふるいしか置いていない社会は、静かに人を減らしていく。音も立てず、抗議も起きず、ただ可能性だけが消えていく。タイから日本を眺めていると、その静けさが、いちばん怖く見える。

努力が報われる社会を目指すなら、まず必要なのは、落ちた人を終わりにしない仕組みだ。
メリトクラシーは希望にもなるし、冷酷な選別装置にもなる。その分かれ道は、意外と足元にある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました